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カテゴリ:PJAM2012( 20 )

PJAM2012#9 歴史の街コート・ディジーその2

 コート・ディジー編その2です。
 18~19世紀、シンドに覇を唱えたタルプール朝(Talpur)は、元をたどるとホラサーンからイラン全土を支配したアフシャール朝の一派なのだそうです。ということで、元来はトルクメン系ということになるのでしょうか。シンド北部に定着すると、早い時期にシンディー語を受容して現地化したようです。
 このタルプールに限らず、シンドには、古来、数多くの民族が来住し、定着してきた歴史があるそうです。言い換えるならば、多様な民族、文化が混淆して、シンドの文化と歴史がかたちづくられてきた、と言うことになるのでしょうか。
 さてシンド北部に定着したタルプールは、彼の地を支配していたカルホラ朝(Kalhora)に対抗し、何度かの戦いの後、1783年にはシンドの支配権を確立しました。こうして成立したタルプール朝の首都はハイデラバードに置かれましたが、その一族であるミール・ソーラブ・ハーン(Mir Sohrab Khan)はハイルプールに拠って、シンド北部を支配しました。
 そしてそのミール・ソーラブ・ハーンが1785~95年に築造したとされているのが、コート・ディジー城(別名アフマダバード城:Fort Ahmadabad)です。
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 城は、ローフリー丘陵の延長、細長く削り残された丘の上に築かれています。
 Google mapの衛星画像で見ると、城の立地する地形がよく分かります。同時に、城の南側に広がるコート・ディジーの町が、細長い丘の上に築かれた城によって守られていることも。
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 当然、城への入り口は南側、コート・ディジーの市街に面した側に設けられています。
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 城門の扉には、巨大な鉄の鋲がびっしりと埋め込まれています。マッラー教授いわく、ゾウを使った攻城戦への備えなのだとか(この写真は2007年撮影)。で、左下の小さな潜り戸を抜けて、城内へ入ります。
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 城門の内側には平坦な広場があり、城壁で囲まれた丘の上の城塞本体へと通じる通路へとつながっています(2007年撮影)。
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 現在では、階段が整備されているので登りやすくなってますよ。
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 階段を登りきると、いよいよ城塞本体、へ通じる第二の城門。レンガ積みの塔と城壁でしっかりと防御されています。
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 第二の城門。レンガ積みの巨大なアーチです。
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 最上層部へ、さらに登ります。
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 レンガ積みアーチの細いトンネル状通路を抜けると...
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 ようやく、最上層です。狭いやせ尾根状の丘の上に築かれているので、最上層部は決して広くありません。
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 城壁に挟まれ、狭い通路状になっているところもあります。
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 城壁からはコート・ディジーの町が一望できます。
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 最上層部のもっとも広いところ。ここに塔(日本式に言えば本丸?)があります。
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 これは、貯水槽。かつては屋根が架けられていたようですね。
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 これが本丸?
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 で、階段を登って本丸?の上へ。
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 狭い丘の上を細長く伸びる城壁、右手はコート・ディジーの町。
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 コート・ディジーの町、全景。城を築いたミール・ソーラブ・ハーンは、晩年、3人の息子にハイルプール藩王国を譲り自身は、ここコート・ディジーで余生を過ごしたそうです。その後も、コート・ディジーは首都ハイルプールと並んで重要な場所であり続けました。
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 そして今でも、タルプールの一族、ハイルプール藩王国の継承者はこの町に住んでいるそうです。この丘の上の邸宅が、世が世なら王様のお住まいだとか。
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 そして、われわれ考古学者がこの近世のお城に登るもう一つの目的がこれ...インダス文明の研究上欠かすことのできない重要な、コート・ディジー遺跡です。遺跡の全景写真は、必ず、コート・ディジー城の城壁から撮られているのですよ。
 ということで、1枚、パシャリ。遺跡のある、北~西側は、見渡す限りの平原で、小麦とパーム椰子、バナナなどの畑が広がっています。反対側、東~南側のローフリー丘陵とは全く正反対の景観です。
by asiansophia | 2012-03-22 20:00 | PJAM2012

PJAM2012#8 歴史の街コート・ディジーその1

 第2日目、お昼ご飯の後、マッラー教授とともにコート・ディジー(Kot Diji)へ向かいました。
 コート・ディジーはローフリー丘陵の南西縁にある町ですが、インダス考古学を学ぶものにとっては町の西にある遺跡の方が有名ですね。
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 SALUからは車で南へ30分ほど。昨日のローフリー・バイパス、サッカルはメイン・ハイウェイ沿いで車も人も多く行きかうにぎやかな地域でしたが、こちらはのどかな田園地帯です。ちょうど冬小麦が育ち、マスタードの黄色い花が咲いていました。
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 最初に訪れたのは、街道沿いの新しい町コート・バングロー(Kot Banglo)からコート・ディジーの旧市街へ向かう道をしばらく走ったところ、小麦畑の真ん中に残されたシーシュ・マハル(Sheesh Mahal)です。
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 ここは英領時代も独立を保っていたハイルプール藩王国(タルプール朝の支流)の宮殿として19世紀後半に建てられたそうです。ムガル皇帝によりラホール城内に建てられた同名の宮殿は「鏡の宮殿」として有名ですね。ここも、モザイク・タイルとミラーワークで飾られあちこちにラホールを模倣しているような意匠が見受けられます。
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 前廊部分のモザイク。残念ながら維持管理が不十分なため、痛んでいる箇所が少なからずあります。また、心ない訪問者の落書きも目立ちます...
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 前廊部分のアーチと木の扉。
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 扉の上の精巧な透かし彫り。
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 大広間の四周は、モザイク・タイル、ミラーワークで飾られた柱、上部にステンドグラスをあしらわれた木の扉です。
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 柱には漆喰の上にミラー・タイルが嵌め込まれているのですが...残念なことにかなり剥落しています。
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 扉の上部~天井もびっしりとモザイクで飾られています。
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 天井のモザイク。同じパターンの繰り返しではなく、きわめて多様なパターンが見られます。
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 側廊の天井のモザイク。
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 周囲には、崩れかけた土塀がめぐっています。ここは、かつての門の跡。
 この宮殿跡は、現在でもハイルプール藩王国の末裔の私有財産なのだそうです。今までは、一般にも開放されていましたが、最近、閉鎖すると言われているそうです。しかしこれだけの建物なのですから、しっかりと修復、保存の処置をした上で、公開されるべきでしょう。
 後で紹介する、コート・ディジー城などとともに、タールプール朝の首都だったこともある歴史の街コート・ディジーを象徴するモニュメントのひとつです。マッラー教授は、何とか所有者を説得して、保存・修復に取り組みたいと考えているようです。
 なお建物は、Google mapで確認することもできます(こちら)。
by asiansophia | 2012-03-21 20:00 | PJAM2012

PJAM2012#7 第2日目

 ラカンジョ・ダーロ遺跡を後にしたのは、もう夕方。そのまま一路SALUへ、戻ったのは日が落ちる頃でした。
 
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 夕飯は、またチキン・カラヒとサブジ、プラオです。同じメニューだけど、おいしいので可。

 そして翌日、2/21は午前9時過ぎに博物館へ。今日からは、構内の移動も護衛付です。
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 じつは昨日から、キャンパス内にはほとんど学生の姿がありませんでした。何でも、シンド州内の他の大学で教授が殺される事件があり、その捜査が進展しないことに抗議して州内のすべての大学で教員がストライキ中とのことでした。ということで、キャンパス内には新校舎の建設に従事している作業員くらいしか人影がありません。
 そして授業がないので、マッラーさんはじめ教授陣もゆったりしてます。
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 話しは変わりますが、パキスタンの人たちは、本当に花が大好きです。ここSALUのキャンパス内も、色とりどりの花で飾られています。
 で、博物館に到着したら、まずはチャイ。マッラー教授としばし雑談の後、あらためて博物館内を見せてもらいます。
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 ここは土器修復室。ラカンジョ・ダーロ遺跡から出土したハラッパー式土器の数々が復元を待っています。
 本場のハラッパー式土器をじっくり観察するKさん。お隣は、博物館スタッフ(フィールド・オフィサー)のアミーン・チャンディオさん。
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 そうこうしているうちにヴィーサル教授と、Ph.D候補生で講師のマダム・タスリームが登場。ヴィーサル教授には、5年前、タール砂漠からローフリー丘陵までご案内していただいて以来です。そして5年間の間に、学位を取得、とんとん拍子に出世して、いまや博物館長!
 ご挨拶の後、今回の訪問の目的のひとつである、旧石器時代資料の見学と遺跡の踏査について相談...と、どうもヴィーサル教授にはなにやらプランがある様子。まぁ、こちらの要望を押しつけても仕方がないので、とりあえずはじめは話しにのりつつ様子をうかがいましょうか...というところだったのですが、結果的にヴィーサル教授のプランが大当たりだったのです。何が?というその詳細は追々。
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 で、あっと言う間にお昼ご飯。チキン・カラヒは相変わらず、でもサブジのかわりにダール(豆カレー)、プラオも野菜入りになりましたね。
 到着から2日、仕事する気満々の日本人2人に対して、パキスタン側は非常にゆったりムード。さて、どこまで話が進むやら、と少々気を揉んでみたりするものの、でもまぁなるようにしかならないよなぁ、と腹を決めるしかありません。
 で、結局この日は、昼食の後、大学から車で30分ほどのコート・ディジー城とコート・ディジー遺跡を訪問しました。続く。
by asiansophia | 2012-03-20 20:00 | PJAM2012

PJAM2012#7 ラカンジョ・ダーロ遺跡

 インダス川を渡る途中で、話題が横道にそれてしまいましたが、ようやく川を渡りきってサッカルです。
PJAM2012#7 ラカンジョ・ダーロ遺跡_a0186568_22211826.jpg
 2011年の統計で人口85万人、シンド州北部最大の都市です。ハイルプールとは町の規模が違います。ケンタッキーもドミノ・ピザもあります。
 そんなサッカルの町の北部に、ラカンジョ・ダーロ遺跡があります。そして遺跡は、拡張する市街地に飲み込まれて、破壊の危機に瀕しています...
 遺跡は、1994年以来、SALUにより調査が進められ、2006年以降は、工場建設による遺跡破壊に直面しての事前調査も行なわれています。パキスタン考古局や、パンジャーブ大学との共同調査も実施されているそうです。
 遺跡は、西、中央、東の3つのマウンド(群)からなり、総面積は50ha以上、これまでの調査ではモヘンジョ・ダーロと同じような、排水施設をともなう道路などが発掘されており、シンド州ではモヘンジョ・ダーロに継ぐ第2の規模の都市遺跡だと考えられています。
 2/20は、まず西マウンドに行きました。いきなり、とても細粒のシルトの丘です。
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 このシルトが道路にまで流れ出していて、車がスタックしそうなほどです;
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 そして、いったい、どこが遺跡なのか困惑するのですが...
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 実はこの西マウンドは土取りによって大規模に破壊されているのです。削り残された壁には、土器やらレンガやらがむなしく残されています。
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 そこかしこに巨大な穴が...
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 生々しいパワーショベルの爪痕も...
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 マウンドの背後には、露天のレンガ工場があります。掘り出されたシルトは、煉瓦作りの材料となっているのです。
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 ということで大規模に破壊されてしまっているのですが、そのために遺跡を覆う堆積物の状態が断面でよく観察できます。
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 ここでは、インダス文明期の都市遺跡を包含する地層の上に、1.5~2mもの厚さのシルト層が一面に堆積している(していた)のです。これはおそらく、かつてのインダス川またはその支流の洪水堆積物なのでしょう。この洪水堆積物がいつのものなのか、インダス文明期の都市と関わりがあるのかどうかは大変興味深いところです。OSL年代測定が可能ではないかと思われますので、文化層中に残されているだろう炭のAMS年代とあわせて測定し、検討してみたいところです。
PJAM2012#7 ラカンジョ・ダーロ遺跡_a0186568_2250383.jpg
 西マウンドをぐるりと一周した後は、車で中央マウンドに移動しました。A地点はすでに工場の敷地の下、最近発掘調査を行なったC地点も工場の建設予定地だったそうですが、今のところ工事はストップされているとのこと。マッラー教授らが、調査の成果と遺跡の意義を、州政府や高等教育委員会(大学を管轄する部局)などに訴えた効果でしょうか。
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 ここでは、先述の通り排水路を備えた街路と建物が発掘されているそうです。インダス式印章も発掘されています。
 ここは2010年の発掘区、色の異なる砂で埋め戻されている範囲が発掘調査区です。
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 同じく、埋め戻されて保存されている発掘調査区。土層観察用のベルトの位置がよく分かりますね。
 現在、SALUでは、発掘調査報告書を刊行すべく準備中ということで、今シーズンは発掘調査は行なっていませんでした。

 広大な遺跡範囲に対して、実際に発掘調査のメスが入れられているのはごく一部に過ぎません。都市の一角にあって、開発と遺跡保護の両立が非常に難しい状況にあるようです。しかしこれだけの規模のインダス文明の都市遺跡は、数少なく、大変貴重な遺跡であることは間違いありません。
 マッラー教授らSALUの調査と遺跡保護への取り組みを、何とかバックアップしたいところです。
by asiansophia | 2012-03-20 06:00 | PJAM2012

PJAM2012#6 シンド州北部におけるインダス川の水利

 ブルドーザーによる破壊のつめ跡も生々しかったローフリー・バイパス地区を後にして、次は、インダス文明期の都市遺跡、ラカンジョ・ダーロ遺跡へ向かいました。
PJAM2012#6 シンド州北部におけるインダス川の水利_a0186568_113511100.jpg
 当日の移動経路はこんな感じ(地図は経産省とNASAの共同プロジェクトによるASTER-GDEMのデータにもとづき、カシミール3Dで作成しています)。
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 ラカンジョ・ダーロ遺跡のあるサッカルへは、インダス川を渡ります。写真は、橋の上から見たサッカル・バラッジ(Sukkur Barrage)。英領インド時代の1923~32年に建造された灌漑用の取水堰です。今では、シンド州政府の灌漑・電源局が管理しており、インダス川の左右両岸を灌漑する運河への水がここから引かれています。
PJAM2012#6 シンド州北部におけるインダス川の水利_a0186568_1952538.jpg
 サッカル・バラッジとインダス川、灌漑運河をランドサット画像(ETM+GLS2000: WRS2:Path152/Row041、2000年10月18日撮影。アメリカ地質調査所USGSとNASA提供、メリーランド大学のGLCFウェブサイトから入手)で見るとこんな感じです。カシミール3Dを利用して「ナチュラルカラー」で表示しているため、植生被覆は緑、水域は紫色になっています。
 画像の上(北=右岸)に伸びるのは、ダードゥ(Dadu)、ライス(Rice)、キルタール(Kirthar)の3運河でインダス右岸を広く灌漑しており、とくにキルタール運河はカッチー平原(Kachhi Plain)の耕地化に大きく貢献しています。
 画像の下(南=左岸)に伸びるのは、ハイルプール(Khairpur)、ナラ(Nara)運河で、前者はローフリー丘陵西側のインダス平原を潤し、後者はローフリー丘陵とタール砂漠の間を流れて砂漠地帯の耕地化の原動力となっています。サッカル・バラッジから引かれた運河の灌漑面積は、左右両岸で20,000km2に及ぶとのことです。
 
PJAM2012#6 シンド州北部におけるインダス川の水利_a0186568_1935784.jpg
 こちらは橋の上から下流側を見たところ。インダス川の水位は、季節的に大きく変動します。5~6月以降、ヒマラヤからの雪解け水を集めてどんどん水位が上昇し、モンスーン季の降雨とあわせてしばしば下流部で氾濫を引き起こします。一方、冬季は渇水期となり、水位が大幅に低下します。訪問時(2月後半)は渇水期にあたり、河床が広範囲で露出しています。遠景に見える高圧線の鉄塔の基礎が、基準高水位をおおむね示しているとみてよいのでしょうか。
 これだけ水位が低下しているのは、サッカル・バラッジで堰き止めてしまっているから、ということもありますが、逆に言うと、これだけの規模で堰を築かないと渇水期に灌漑水量を確保することができない、ということでもあります。シンド州において、河川旧流路などを利用した灌漑水路網が整備されたのは18世紀のカルホラ朝(Kalhora Dynasty)、19世紀のタルプール朝(Talpur Dynasty)と言われています。
 それ以前の灌漑技術、水路網、そして耕作技術はどのようなものだったのでしょうか。より古い、インダス文明期やその成立以前を考える上で、地形と水文環境、水利開発は非常に大きな問題となるでしょう。
 ついでにもうひとつ...インダス川の流路は、歴史的に大きく変化したと言われています。今のところ、年代測定をともなう地形発達史、流路変遷の研究がほとんどないのですが、Louis Flam(Flam1993 in Himalaya to the Sea: Geology, geomorphology and the Quaternary)は、下に引用したような流路の変遷を想定しています。サッカルとローフリーの間を流れる現在の流路は、アラブ征服時代以降の地理書の記述から、10~14世紀の間に成立したと考えられています。
 Flam説によれば...現在、インダス川の右岸に接しているモヘンジョ・ダーロはもちろんのこと、シンド州のインダス文明期の遺跡はそのほとんどが、かつてはインダス左岸の平原地帯に、主流路から離れて立地していたことになります。この点については、地理、地形の専門家と協力して、ボーリング調査などを行なって、流路の変遷を年代的にあとづけていかなければなりません。
 そうした調査の実施も、マッラー教授と話し合っている壮大な野望の一部なのですが、実現するのかどうかは別にして、今回、事前に衛星画像やDEM図をチェックした上で、いくつかの地点を確認することができましたので、追って報告したいと思います。
 また、この後、インダス川を渡って訪れたラカンジョ・ダーロ遺跡でも、インダス川の変遷にかかわる状況を見ることができました。これについては、次回(予定)。
PJAM2012#6 シンド州北部におけるインダス川の水利_a0186568_19511879.jpg (10,000~4,000BP)

PJAM2012#6 シンド州北部におけるインダス川の水利_a0186568_2052346.jpg(6,000~4,000BP)

PJAM2012#6 シンド州北部におけるインダス川の水利_a0186568_2052920.jpg(2,500~2,000BP)

by asiansophia | 2012-03-19 06:00 | PJAM2012

PJAM2012#5 ローフリー・バイパス地区その2

 前回の続きです。マッラー教授がせっかく連れてきてくれたローフリー丘陵バイパス地区...
PJAM2012#5 ローフリー・バイパス地区その2_a0186568_223268.jpg
 ブルドーザーのキャタピラ痕がくっきり残る、とても悲しい事態になっていました...
PJAM2012#5 ローフリー・バイパス地区その2_a0186568_2243431.jpg
  気を取り直して、別地点-というか、削平されてしまった地点の尾根の続きで、まだ採掘が及んでいない地点に移動しました。
PJAM2012#5 ローフリー・バイパス地区その2_a0186568_2254677.jpg
 草一本生えていない荒漠とした平らな地面の上に、びっしりと石がころがってます。
PJAM2012#5 ローフリー・バイパス地区その2_a0186568_2264184.jpg
 その大半は、石灰岩の石ころなんですが... よく見ると、そこかしこに石器があるわけです。それも、ものすごい数が、あちこちに集中部を形づくっています。この写真に写っているものも...よく見れば大型・厚手のフレイクです。
PJAM2012#5 ローフリー・バイパス地区その2_a0186568_228136.jpg
 そんな中にハンドアックスの作りかけもあったりします。スケール代わりにポータブルGPS(Oregon Garmin550)を置いてみました。約12cmです。
PJAM2012#5 ローフリー・バイパス地区その2_a0186568_22113857.jpg
 丘陵の頂部は、ずっとこんな景観が広がってます。なお、遮るものもなく日差しが強そうに見えますが...2月中旬は20年以上ぶりの寒波に襲われたということで、日中も20度台前半と過ごしやすかったです。が、あと1~2ヶ月もすると、日中は40~50度まで上昇すると言う...
PJAM2012#5 ローフリー・バイパス地区その2_a0186568_22134666.jpg
 そして丘陵の頂部には、ところどころにきめ細かいシルト質の堆積物が三日月状に広がっている箇所があります。この写真では真ん中~右半分に写っているのですが分かりますでしょうか?
 実はコレ、インダス文明期の人びとが地面を掘り返してチャートの原石を入手した採掘坑の跡なのです。バイパス地区ではまだ発掘は行なわれていませんが、シャデー・シャヒード地区でイタリア隊とSALUの共同調査が行なわれ、そのときの発掘により明らかになりました。
 以下、参考までに5年前(2007年3月)の訪問時に、ヴィーサル教授にご案内いただいたシャデー・シャヒード地区の写真です。
PJAM2012#5 ローフリー・バイパス地区その2_a0186568_2217322.jpg
 やはり三日月状に広がる採掘跡。
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 唯一発掘された採掘跡。
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 採掘坑の底には、取り出されなかったチャートの原石が残っています(レンズキャップの脇)。採掘の結果できたこのような穴を、きめ細かいシルトが埋めた結果、地表から見ても分かる状態になった、というわけです。
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 ちょっと離れたところに、インダス文明期(またはその直前のコート・ディジー文化期)の石器製作地点が広がっていました。地表には、特徴的な石刃石核が落ちています。
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 ふたたび、ローフリー丘陵の地形、景観。
 この後は、インダス川の対岸、空港のある町サッカルの市内に残されている、インダス文明期の都市遺跡、ラカンジョ・ダーロ(Lakhan Jo Daro)を見に行きました。詳しくは、また、次回。
by asiansophia | 2012-03-18 18:00 | PJAM2012

PJAM2012#4 ローフリー・バイパス地区

 SALU滞在第1日目(2/20)は、マッラー教授のご案内で、ローフリー丘陵北端のバイパス地区と、サッカル市街のラカンジョ・ダーロ遺跡を訪問しました。
 その詳細の前に、訪問地の位置、地理など。こちらにGoogle Mapを準備しましたのでよろしかったらどうぞ(別窓)。
 画面中央左側の緑の帯が、インダス川とインダス平原、右半分はタール砂漠(大インド砂漠)です。タール砂漠の西端、画面のほぼ中央に、インダス平原から枝分かれした細い緑の帯が見えると思いますが、これがナラ低地(Nara Valley)です。「ナラ」というのは、ずばり「川」とか「水路」という意味だそうですが...ここはかつてインダス川の支流(本流)が流れていた跡で、現在はインダス川に設けられたサッカル・バラッジ(取水堰)からひかれたナラ運河に灌漑されてどんどん農地が拓かれています。
 そしてナラ低地とインダス平原に挟まれた、タール砂漠の飛び地部分が、今回の主要な訪問・調査対象です。
 この飛び地の北半分、すこし色が濃く見える範囲がローフリー丘陵(Rohri Hills)。南北90km、東西30km、周囲から30~90mも高い台地上の地形です。
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 中生代、恐竜の時代、インドはまだアジアとつながっておらず、現在のチベットとインドの間にはテチス海という大洋が広がっていました。その後、インドがアジアと衝突し、ヒマラヤが隆起して現在の地形になったわけですが...
 いまから4~5千万年の古第三紀始新世の頃、このあたりはまだ分離していたインドの北端の浅い海でした。そこに形成されたサンゴ礁が広大な石灰岩の地層を作りました。そしてその石灰岩層の一部が、ローフリー丘陵のあたりで隆起して地上に顔を出し、その後、地層の柔らかい部分が削られてテーブル状の台地(メサ)として残った、と言うわけなのです。
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 そして世界中の中生代~古第三紀の石灰岩層の例(イギリスの白亜層とか、フランス南部のジュラ層とか)に漏れず、ここにも、良質なチャート(フリント)が石灰岩層中に含まれています。そして、そのチャートに目をつけた古代人が、100万年以上前の前期旧石器時代から4千年前頃のインダス文明期まで、この丘陵に集まって、原石を入手して石器を作り、多数の遺跡を残したのです。
 ここローフリー丘陵にチャート原石と遺跡があることは19世紀末から知られていましたが、本格的な調査は1990年代に入ってからです。SALUとイタリア隊の共同調査が2000年まで続けられ、丘陵西部のシャデー・シャヒード地区周辺で、旧石器時代の遺跡やインダス文明期の採掘跡が調査されました。
 そして2000年以降は、マッラー教授、ヴィーサル教授らが調査範囲を広げて、丘陵の北端から、南および東側のタール砂漠まで、多数の遺跡を発見し続けています。
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 これは、マッラー教授らが発見したうち、旧石器時代と中石器時代の遺跡の分布です(地図は、経産省とNASAの共同プロジェクトによるASTER-GDEMをもとにカシミール3Dで作成しました)。発券され、正確に位置を記録された遺跡は200地点以上ですが、遺物が散布していることは分かっていても位置を記録していない地点もまだ多数あり、何よりも踏査が及んでいない範囲が...
 話しは戻って、第1日目に訪問したバイパス地区は、このローフリー丘陵の北端にあります。縞模様の顕著な、とても良質なチャートが産出します。おそらく、この縞チャートは、インダス文明期にモヘンジョ・ダーロなどで使用されていた立方体の「おもり」(秤用)の素材となったもので、もしかしたら、この一体に、採掘・製作遺跡が残されているのかもしれません。
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(こちらは、モヘンジョ・ダーロの遺跡に併設された博物館に展示されているチャート製の「おもり」)

 マッラー教授たちは、この一体で十数地点の石器製作遺跡(前期旧石器~インダス文明期)を記録しているのですが、1990年代末に、この丘陵を横断するかたちでバイパス道路が建設されるとともに、石灰岩の工業採掘が急ピッチで進み、遺跡が破壊の危機に瀕していることは、つねづね聞かされていました。
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(丘陵を横断するバイパス道路)

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(石灰岩の採石場)

 インダス文明期の採掘遺跡と違って、現代の採石場は、ダイナマイトで丘陵を吹き飛ばし、ブルドーザーでごっそりと石を攫っていくというものです。毎年のように、地形が改変されて記録される前の遺跡が失われ手いる可能性があるということで、今回のわれわれの訪問に際してのマッラー教授のリクエストのひとつが、この地区における遺跡破壊の現状を確認して、早急かつ効果的に遺跡を記録する方法を検討する、ということがありました。
 残念ながら日本とは異なり、こうした遺跡を保護する法制は整っておらず、州政府、および地元県の行政担当者は、大学からの訴えに耳を貸すことはなく、マッラー教授らが採石場の管理者に個人的に「このあたりだけは残しておいてくれ」とお願いするしかない状態だということです。
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 ということで、採石場の一角に車を停めて、本当に削り残したという一角をよじ登ります。
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 足場が本当に不安定で、足を滑らせたら最後、20mくらい石ころだらけの斜面を滑落しかねない細道を登って、遺跡が残されている丘陵頂部へ向かったのですが...
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 なんと?! 遺跡はすべて、ブルドーザーで削平されてしまった後でした...
 崖に沿ってブルドーザーが削り残したわずかな部分に、石器が残されています...
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 前期旧石器時代のハンドアックスも落ちていました。ローフリー丘陵内は旧石器時代遺跡の宝庫ですが、ハンドアックスをともなう前期旧石器時代遺跡は決して多くありません。その中で、このバイパス地区は有望な場所だと考えられていただけに残念です。
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 マッラー教授の怒りと失望の大きさは計り知れません。

 といことで、いきなり暗雲立ち込める? 現地踏査でしたが...続きは次回
by asiansophia | 2012-03-17 20:00 | PJAM2012

PJAM2012#3 とりあえず第1日目

 前回からの続きです。
 24時間警護付、とか言うと、どんな物騒なところなんだと思われるかもしれませんが、いろいろ事情があるようでして...
 確かに、昨年来、国連やNGOスタッフなど外国人の誘拐が数件起きています。ご存知の通り、米軍によるアル・カーイダの指導者の暗殺作戦やら、隣国のアフガニスタン情勢やらの影響で、タリバーン系の民兵、ゲリラ組織の活動が活発になっている地域もあります。カラチでは、民族、宗派対立による暴動、衝突も起こっています。ただしパキスタン全土が等しく危険かというと、そうではなくて治安も良好な地域と、非常に危険な地域とが明瞭に分かれている状況です。
 また、軍政が終焉し、民主的に選挙が実施される社会情勢になったことで、かつては押さえ込まれていた多様な主義主張が大っぴらに叫ばれるようになったことで、潜在的な衝突のタネはかえって顕在化したようですが。たとえば、前回訪問時(2004年~2007年:軍事政権最後の年)には、支持者の村々の落書きでしか見なかった、シンド・ナショナリストのシンボルマークや旗、スローガンが、大学構内も含めてそこら中に掲げられています。ただし、お隣のバローチースターン州の状況とは違って、ここでは分離独立を叫ぶような急進派はほとんどいないようですが。
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 ちなみにわれわれの訪問先のシンド州北部は、一部地域(北西側)を除くと治安はきわめて良好なようです。それでも、政府の方針ということで、われわれの滞在は地元警察にあらかじめ登録されて、到着時には治安警察の係官が来まして(で、大学の手続きが遅れて正式な書類が通る前にわれわれが到着してしまったので、マッラー教授は文句を言われていたようです)、その後は、ゲストハウスの外に出るときは必ず同行するように、と言うことで、ハイルプール県警察から派遣された自動小銃を持った警官2人と、2週間一緒に過ごすことになったのでした。
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 で、こちらが、われらがガードマン、左がムバーラク、右がアブドゥル・カーディル。最後は、Kさんととても仲良くなって、お別れの時には半べそかいてました。

 そんなこんなで、初日は10時過ぎに博物館にあらわれたマッラー教授と打ち合わせをする間もなく、その治安警察だとか大学の関係だとかでバタバタしてたのですが、それらを何とかやり過ごすと、ようやく、考古学のお話しの時間となりました。
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 こちらは、自分の研究についてマッラー教授に説明するKさん。何とこの後、彼のリクエストは言い値で全部通りまして、滞在期間では足りないくらいの材料を手にすることができたのでした。何という、幸運!!
 で、私の方はといいますと、昨年6~7月にマッラー教授が来日していたときから議論してきたテーマがいくつかありましたので、それらをどんなスケジュールでこなして行こうか、ということだったのですが...
 この後、マッラー教授から、さっそく遺跡を見に行こうという提案があり、昼食後、チャート原産地遺跡群があるローフリー丘陵へ向かうことになりました。
 ちなみに、昼食は、前夜の夕食とほぼ同じメニュー、チキン・カラヒ(チキン・トマト・カレー)、サブジ(ミックス・ベジタブル・カレー味炒め)とプラオ(ご飯)、チャパティです。
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 このチキン・カラヒが絶品。トマトの酸味とスパイシーなマサラがよくマッチしていて、油断しているといくらでも食べてしまいそうです。以後、毎日、毎晩、40代の胃袋事情と相談しながら、時には消化薬の力も借りながら、何とか2週間、おなかを壊さずに乗り切りました。なおKさんは、若さにまかせてガンガン食べてましたよ。
 と言うことで、ローフリー丘陵は、また次回。
by asiansophia | 2012-03-16 20:00 | PJAM2012

PJAM2012#2 躍進するSALU

 無事、中断せずに第2回です。
 今回滞在したシャー・アブドゥル・ラティーフ大学(SALU)は、パキスタンの南東部を占めるシンド州の中でも北の方、インダス川左岸のハイルプールという町の郊外にあります。シンド州北部の総合大学は、今のところここだけ(ほかに医科、工科大学はあるらしい)ということです。
 滞在期間中はずっと、SALUのゲストハウスにお世話になりました。3食付です。
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(ゲストハウスの中庭、パキスタンの国旗のデザインです)

 前回(2007年)の滞在時には、2部屋しかない小さいなゲストハウス?だったのですが、今回は何と、16部屋もあってエアコン、WiFi完備の新ゲストハウスが完成していました。
 SALUは現在、次々に新しい建物が完成し、学生数もここ数年で5,000人から7,000人まで増えたとのこと。しかもこの4月には、インダス川の向こう岸、シカルプールに新キャンパスがオープンするとのこと。前回は、道路だけあって校舎など何もなかった側にも、新しい建物がガンガン建っています。その中に、ゲストハウスと、考古学研究室も入っている考古学・人類学博物館、生物多様性保護センターと植物園などがあり、さらに滞在中の2/28には新本部棟がオープンして大々的なセレモニーをやってました(潜り込んできました)。
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(新本部棟オープニング・セレモニー、レッド・カーペット!)

 これらの新建物は、すべて、前考古学研究室主任教授にして、現副学長のビッグ・マダム、N.シェイフ教授が音頭をとって完成させたとのこと。さすが!
 その発展振りには大いに驚いたのですが、マッラー教授によると、大学用に留保されている土地のうち、まだ1/3以下しか開発されていないとのことでした...将来、どんな大学になるのでしょうか?
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 2008年にオープンした考古学・人類学博物館、2階建てで、1階が考古学、2階が人類学部門の展示...の予定ですがまだ準備途上のようでした。
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 正面玄関の看板。博物館の中には、考古学研究室のスタッフの部屋もあります。が、将来的には、考古学研究室は西隣に新しい建物を建てるようです。今回のわれわれの滞在中に、マッラー教授がそのための用地の確保を、学部長と副学長に直訴して無事、ゲットしてました。なお、こちらでは欧米式に学長は名誉職(SALUの場合、現在はシンド州名誉知事が学長も兼任しています)なので、副学長というのは実質上のトップです。
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 博物館の東隣は、「神官王広場」と名づけられた...バレーボールコートでした。ここに、PJAM研究所を建てるのが将来のわれわれの野望です(嘘)
 とまぁ、ブラブラと早朝のキャンパス内散歩をKさんと2人で楽しんでみたのですが、実は、われわれだけでフラフラできたのはコレが最初で最後、この後は、24時間武装警官の警備付になってしまったのでした。
 と、その詳細はまた後ほど。
by asiansophia | 2012-03-16 06:00 | PJAM2012

PJAM2012#1 2月場所

 またまた長らく更新をさぼっておりました。その間、2月18日から3月2日まで、5年ぶりにパキスタンに行ってきましたので、ブログ再開がてら、その道中と成果を報告したいと思います。
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 今回は、昨年6月~7月に1ヶ月間来日、東京に滞在された、Q.H.マッラー教授の所属する、シャー・アブドゥル・ラティーフ大学(Shah Abdul Latif University:SALU)を訪れ、同大に所蔵されている資料の実見と、周辺の遺跡の立地、景観の確認が目的でした...が、いろいろと話しがトントン拍子に転がってしまって、砂漠の中で試掘までしてきてしまいました。
 同行した、インドに留学中のKさんも、予想以上の成果をゲットできて(詳細はまだ秘密?)、短期間でしたが充実した訪問になりました。マッラー教授をはじめ、SALU考古学・人類学博物館長のG.M.ヴィーサル教授、そして考古学だけでなくSALUのビッグ・ボスもといビッグ・マダムのN.シェイフ副学長(教授)には、本当にいくら感謝してもし足りないほどです。
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(写真はSALUの重鎮の皆さんとわれわれ、前列左から2人目白いクルタ姿がヴィーサル教授、その左がKさん、マダム・シェイフ副学長、私、マッラー教授、Kさんの後ろがFaculty of Scienceの学部長です)

 と、順風満帆の訪問だったかと思うと、実はスタート時点ではいろいろと躓きの方が多く...
 まず最初は、出発の日。朝6時台に我が家発だったので、ずっと座って仮眠もとれるだろうということで高速バスを選んだのですが...前夜の降雪がたたって、東関道が凍結、通常の倍以上の時間がかかると言うことで、バスの運転手いわく「午前便の方は間に合わないかもしれないので電車で行ってくれ」と。
 仕方なく、京王~山手線~京成を乗り継いで、何とか間に合いました。
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 写真は、離陸後の機窓から見た、銚子付近。確かに真っ白ですね。自宅周辺は雪などなかったので、バス運転手の言っていることが「?」だったのですが、隅田川越えた辺りから事情が分かりました。東側の方が降ったんですね。

 その後、フライトは順調に経由地のバンコクへ。タイ国際航空なので、機内食はタイ・カレーです。
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 今回はものすごく乗り継ぎがよくて、バンコクでの待ち時間はほとんどありませんでした。カラチ行きの出発ゲートに向かうと、日本人はほとんど見当たらなくなります。お、いた、と思うと、みなビジネス・クラスへ。お仕事で出張でしょうか...
 で、エコノミーでも後の方に腰を下ろすと...一帯は、パキスタンのボンボン御一行。これが、カラチまで、ひたすらはしゃいで騒ぎ続けると言う...客室乗務員の指示は聞かず、シートベルトしない、離陸時にフラフラ立ち上がってどっか行こうとする、携帯使いまくる、酒を飲ませろと駄々をこねるetc.
 ちなみに帰国便ではオマーンからの団体様御一行が同じような感じでしたが、タイ国際航空の客室乗務員さんは手馴れた様子で、それこそ子供をあやすかのようにあしらっておりましたw
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 もう一回、機内食。やはり、タイ・カレーです。
 カラチ着は定時、23時ちょっと前。SALU最寄のサッカル行きの国内線は翌日夕刻なので、現地の代理店を通じてRamada Plaza Karachiを予約していたのですが、送迎は来ておりません。まぁ、予約条件がホテルのフロントでの現金払いだったので実害はないだろうということで、空港のタクシーでホテルへ行きました。
 で、案の定、予約は入っていませんでした。別便で先に到着していたKさんによると、フロントから電話を入れてもらったところ「忘れてた」ということだったらしいです(涙) でも、Kさんがちゃんと部屋を確保してくれていたので無問題です。
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 2ベッドで1泊約1万4千円(1パキスタン・ルピー=1.1円で換算してます)と、日本でもちょっと高めですが、何かと物騒なニュースの多い市内へ入らずに空港近くで滞在できて、エアコン完備、WiFiも使え(有料ですが)、朝食も豪華なビュッフェ(上の写真がビュッフェ・コーナー)ということで、まぁ1泊ならいいかな、と。
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 (ビュッフェのメニューは、トースト、フルーツ、ヨーグルトからカレーまで。グリルド・トマトが絶品でした)
 で、この後、お昼過ぎまで滞在、レイト・チェックアウトも追加料金取られず(部屋が空いていれば大丈夫みたいです)、空港まで無料で送ってもらって(タクシーだと600~700円くらい)、あとは国内線のチェックインカウンターがオープンするまで、到着ロビー正面のマクドナルドで時間を潰します。
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 ここでは、ハンバーガーと、日本で言うところのLサイズのポテト、ドリンクのセットが約400円。日本と大して変わらない値段ですが、この国では超高級料理ですね。味は...ほとんど変わりません。
 そして出発、ATR-42というターボプロップ機で、途中、モヘンジョ・ダーロ空港にも立ち寄るので2時間弱です。小型のターボプロップ機は、離陸直後にかなりの急角度で上昇するのがあまり好きじゃないのですが、Kさんも同意見でした。
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(経由地のモヘンジョ・ダーロ空港、ここでは降りず。でも、後日、遺跡には行きましたよ)
 でもって、目的地のサッカル空港にほぼ予定通りに到着...するも、到着日時を伝えたところ「出迎えに行くよ」と言ってくれていたマッラー教授も、誰もいません???
 どうしたものかと思案していると、適当なキャスターつきのカウンターの上に座ってるお兄ちゃん2人が呼んでます。客引きかと思って、用はない、と断ってたのですが、なんと空港の係官で、外国人はパスポート番号を登録しなきゃならんということでした。前回にはなかった仕組みです。
 1人はそこそこ英語ができたので、とりあえず公衆電話はないかと訊いてみたところ、そんなものはない、と。で、事情を説明すると、「じゃあ、オレがマッラー教授にでんわしてやる」ということで、ありがたくも連絡がつきました。そして...電話口ではマッラー教授が(いつもと変わらず)軽やかに「あれー?今日到着だっけ?明日来るんだと思ってたよ~」
 まぁ、それでも、すぐにタクシーを手配してくれて30分くらいで迎えが到着して、そのまま一路大学のゲストハウスに行けましたので、結果、無問題です。たぶん、最初に悪いことが全部起こって、厄落としになったのでしょう。この後は、かつてないほどの順調な日々でした。
 ということで、続きはまた後ほど
by asiansophia | 2012-03-15 20:00 | PJAM2012