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2012年 03月 19日 ( 2 )

「中国で発見の化石、未知の人類か」

 ナショナル・ジオグラフィック・ニュースの記事から
「中国南部で見つかった石器時代の骨は、未知の人類のものかもしれない。議論を呼んでいる最新研究によると、この人類は突出したアゴと眉弓を持ち、シカの肉を食べ、洞穴に暮らしていたという。
 この「謎の人類化石」は、1万1500年前というごく最近に現生人類と共存していた、まったく新しい種の可能性もあると、中国とオーストラリアの研究チームは主張している。
 あるいはこの化石は、アフリカを出て東アジアへ移り住んだ、現生人類のごく初期のグループかもしれないという。
 またあるいは、彼らの主張に懐疑的な一部研究者に言わせると、化石はわれわれがすでに知っている事実、つまり、人間の姿かたちや大きさは多様であるということを示しているにすぎないのかもしれない。 」
(イラスト:雲南省馬鹿洞人の復元想定図by Peter Schouten、写真:広西チワン族自治区隆林洞穴出土の頭蓋骨by Darren Curnoe。ナショナル・ジオグラフィック・ニュースWebサイトより)

 原著論文は、オンライン学術誌PLos ONE(ダウンロード・フリー)に、3/14付で掲載された、Human Remains from the Pleistocene-Holocene Transition of Southwest China Suggest a Complex Evolutionary History for East Asians(南西中国で発見された更新世-完新世移行期の人類遺体は東アジアにおける人類進化史の複雑さを示唆する). Darren Curnoe, Ji Xueping, Andy I. R. Herries, Bai Kanning, Paul S. C. Taçon, Bao Zhende, David Fink, Zhu Yunsheng, John Hellstrom, Luo Yun, Gerasimos Cassis, Su Bing, Stephen Wroe, Hong Shi, William C. H. Parr, Huang Shengmin, Natalie Rogers (2012) PLoS ONE 7(3): e31918. doi:10.1371/journal.pone.0031918です。筆頭著者はオーストラリア、シドニーにあるニューサウスウェールズ大の研究者、ほかオーストラリアと中国・雲南省の研究者を中心とした共同研究チームのようです。
 研究の対象となったのは、雲南省紅河哈尼(ハニ)族彝(イ)族自治州蒙自県に所在する馬鹿洞(Maludong)の発掘調査で出土した人骨群で、さらに広西壮(チワン)族自治区百色市隆林各(ゲ)族自治県徳峨糸近郊に所在する隆林(Longlin)洞窟から1979年に地質学者によって発見されていた頭骨も検討されたようです。
 研究チームは、これら2地点の化石人骨は同じ人類集団に帰属するものと考えており、現代人には通常見られない特徴があると指摘、これらの化石が、炭化物のAMS年代測定と、鍾乳石のウラン・シリーズ年代測定により、1.43~1.15万年前のものであるとしました。その上で、1)北アフリカ・モロッコのDar-es-SoltaneおよびTémara遺跡や、広西壮(チワン)族自治区崇左市知人洞(Zhirendong)から出土した人骨が示唆するように古代型ホモがより新しい時代まで生き残っていた可能性、または2)現代人の出アフリカは何波もありその中により古い形質を反映した集団がいた可能性を指摘しています。
 この研究は、基本的に化石人骨の形質と年代にもとづくものであり、たとえば「デニソワ人」が脚光を浴びたような古人骨から抽出したDNAにもとづくものではありません。そして化石人類の形質をめぐる議論は、しばしば錯綜します。ナショナル・ジオグラフィック・ニュースに見られる反対論者のコメントが、それを象徴しているようです。
 ちなみに、共同研究グループが類例として指摘した知人洞の人骨は、ナショナル・ジオグラフィック・ニュースで反対意見を述べているエリック・トリンカウスらが、先に「東アジアにおける現代人の最古の例」として報告したものであり(2010年、アメリカ科学アカデミー紀要に掲載の論文)、今回、このような引用をされれば黙っていないのは道理、トリンカウスは、馬鹿洞、隆林洞窟も現代人の変異の幅におさまると反論していますね。ちなみに、知人洞からは下顎骨と歯しか出土していないので、現代人と特定できるのかどうかと言う反論が出されていたようです。
 ここはやはり、DNAの抽出に成功しない限り、議論が並行線をたどるような気がします...
 あえて研究チームの主張に沿ってみると、中国南部から東南アジアにかけて、後期旧石器時代相当の年代になっても、「原始的」に見える礫器が続くこと、それらの遺跡はたいがい山間部の洞窟で発見されていることと関連しているかのように考えられます。また、その年代は明らかに完新世に入っており、中国南部における最古の土器の年代よりも新しい...新石器時代の胎動を迎えた現代型人類と、古代型の人類が並存していたのか...などと想像力を掻きたてられますが...
 共伴する石器や、洞窟内における生活の痕跡などについて詳しく調べる前に、先走りは禁物ですね。

 いずれにしても、今後の研究と議論の展開には要注目です。
by asiansophia | 2012-03-19 20:00 | 旧石器考古学/Palaeolithic

PJAM2012#6 シンド州北部におけるインダス川の水利

 ブルドーザーによる破壊のつめ跡も生々しかったローフリー・バイパス地区を後にして、次は、インダス文明期の都市遺跡、ラカンジョ・ダーロ遺跡へ向かいました。
PJAM2012#6 シンド州北部におけるインダス川の水利_a0186568_113511100.jpg
 当日の移動経路はこんな感じ(地図は経産省とNASAの共同プロジェクトによるASTER-GDEMのデータにもとづき、カシミール3Dで作成しています)。
PJAM2012#6 シンド州北部におけるインダス川の水利_a0186568_11371969.jpg
 ラカンジョ・ダーロ遺跡のあるサッカルへは、インダス川を渡ります。写真は、橋の上から見たサッカル・バラッジ(Sukkur Barrage)。英領インド時代の1923~32年に建造された灌漑用の取水堰です。今では、シンド州政府の灌漑・電源局が管理しており、インダス川の左右両岸を灌漑する運河への水がここから引かれています。
PJAM2012#6 シンド州北部におけるインダス川の水利_a0186568_1952538.jpg
 サッカル・バラッジとインダス川、灌漑運河をランドサット画像(ETM+GLS2000: WRS2:Path152/Row041、2000年10月18日撮影。アメリカ地質調査所USGSとNASA提供、メリーランド大学のGLCFウェブサイトから入手)で見るとこんな感じです。カシミール3Dを利用して「ナチュラルカラー」で表示しているため、植生被覆は緑、水域は紫色になっています。
 画像の上(北=右岸)に伸びるのは、ダードゥ(Dadu)、ライス(Rice)、キルタール(Kirthar)の3運河でインダス右岸を広く灌漑しており、とくにキルタール運河はカッチー平原(Kachhi Plain)の耕地化に大きく貢献しています。
 画像の下(南=左岸)に伸びるのは、ハイルプール(Khairpur)、ナラ(Nara)運河で、前者はローフリー丘陵西側のインダス平原を潤し、後者はローフリー丘陵とタール砂漠の間を流れて砂漠地帯の耕地化の原動力となっています。サッカル・バラッジから引かれた運河の灌漑面積は、左右両岸で20,000km2に及ぶとのことです。
 
PJAM2012#6 シンド州北部におけるインダス川の水利_a0186568_1935784.jpg
 こちらは橋の上から下流側を見たところ。インダス川の水位は、季節的に大きく変動します。5~6月以降、ヒマラヤからの雪解け水を集めてどんどん水位が上昇し、モンスーン季の降雨とあわせてしばしば下流部で氾濫を引き起こします。一方、冬季は渇水期となり、水位が大幅に低下します。訪問時(2月後半)は渇水期にあたり、河床が広範囲で露出しています。遠景に見える高圧線の鉄塔の基礎が、基準高水位をおおむね示しているとみてよいのでしょうか。
 これだけ水位が低下しているのは、サッカル・バラッジで堰き止めてしまっているから、ということもありますが、逆に言うと、これだけの規模で堰を築かないと渇水期に灌漑水量を確保することができない、ということでもあります。シンド州において、河川旧流路などを利用した灌漑水路網が整備されたのは18世紀のカルホラ朝(Kalhora Dynasty)、19世紀のタルプール朝(Talpur Dynasty)と言われています。
 それ以前の灌漑技術、水路網、そして耕作技術はどのようなものだったのでしょうか。より古い、インダス文明期やその成立以前を考える上で、地形と水文環境、水利開発は非常に大きな問題となるでしょう。
 ついでにもうひとつ...インダス川の流路は、歴史的に大きく変化したと言われています。今のところ、年代測定をともなう地形発達史、流路変遷の研究がほとんどないのですが、Louis Flam(Flam1993 in Himalaya to the Sea: Geology, geomorphology and the Quaternary)は、下に引用したような流路の変遷を想定しています。サッカルとローフリーの間を流れる現在の流路は、アラブ征服時代以降の地理書の記述から、10~14世紀の間に成立したと考えられています。
 Flam説によれば...現在、インダス川の右岸に接しているモヘンジョ・ダーロはもちろんのこと、シンド州のインダス文明期の遺跡はそのほとんどが、かつてはインダス左岸の平原地帯に、主流路から離れて立地していたことになります。この点については、地理、地形の専門家と協力して、ボーリング調査などを行なって、流路の変遷を年代的にあとづけていかなければなりません。
 そうした調査の実施も、マッラー教授と話し合っている壮大な野望の一部なのですが、実現するのかどうかは別にして、今回、事前に衛星画像やDEM図をチェックした上で、いくつかの地点を確認することができましたので、追って報告したいと思います。
 また、この後、インダス川を渡って訪れたラカンジョ・ダーロ遺跡でも、インダス川の変遷にかかわる状況を見ることができました。これについては、次回(予定)。
PJAM2012#6 シンド州北部におけるインダス川の水利_a0186568_19511879.jpg (10,000~4,000BP)

PJAM2012#6 シンド州北部におけるインダス川の水利_a0186568_2052346.jpg(6,000~4,000BP)

PJAM2012#6 シンド州北部におけるインダス川の水利_a0186568_2052920.jpg(2,500~2,000BP)

by asiansophia | 2012-03-19 06:00 | PJAM2012