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2011年 09月 09日 ( 1 )

中世~近世の開発@武蔵野台地南部/ landscape & land utilization of Medieval Musashino upland

 前記事の続きです。
中世~近世の開発@武蔵野台地南部/ landscape & land utilization of Medieval Musashino upland_a0186568_23482.jpg
 これは明治13年に陸軍参謀本部によって作成されたいわゆる「迅速図」をつなぎあわせたもの。だいたい、現在の世田谷区、杉並区、武蔵野市、三鷹市、調布市、府中市、小金井市、小平市、西東京市、稲城市、多摩市、国分寺市、国立市のあたりになります。青線(および塗り潰し)は、自然流路と考えられる水部です。
 その上に、東京都遺跡地図上で、中世の遺跡として登録されている範囲を白線で重ねてあります。一見して、遺跡の分布にかたよりがあることが見て取れるでしょう。地図下側の多摩川に沿った範囲は遺跡が並んでいます。
 その中心は、左下の府中。古代の武蔵国府以来、中世においても政治の中心地でした。そして多摩川低地の開発とセットで府中崖線沿いに遺跡が広がっています。一方で、それより北側、立川面や武蔵野面の台地内部には遺跡がほとんどありません。実はこうした遺跡分布は、弥生時代以降、継続的に認められる現象です。これについては、2010年に日本考古学協会でポスター発表しました。後ほど、このブログでもあらためて紹介させていただきます。
 地図中の白丸は江戸時代後期(19世紀前半)に編纂された新編武蔵風土記稿に見える村の位置(ただし明治13年迅速測図における村落の中心的位置として示してあります)、四角は宿駅、三角は新田です(新田については、まだ遺漏があります。スミマセン)。
 これらを重ね合わせてみると、当然のことながら三角の新田の分布域には中世の遺跡はまず存在していないですね。白丸の中にも中世の遺跡と重ならない、隣接しないものがありますが、ひとつには江戸時代前・中期以降の新開村や分村が含まれているためです。また中世に遡る寺社や伝世品の板碑が分布する場合もあります。しかしながら、近世以降との差は歴然としています。

中世~近世の開発@武蔵野台地南部/ landscape & land utilization of Medieval Musashino upland_a0186568_2363746.jpg
 続いて、同じ地図に近世の遺跡範囲を重ねます。ぐっと遺跡数が増えてきましたね。まだ村落の位置と釣り合いませんが、近世の遺物だけが出土・採集されている場合に、それだけでは遺跡登録されない場合もありますので...
 また水路がぐんと増えていますが、このうち図の大部分の範囲については、1653~54年に開削された玉川上水からの分水です。個々に成立年代を特定できる水路以外も含めて、玉川上水系の用水は、まず玉川上水が完成しなければ水源がないので、中世まで遡ることはないと言えます。遺跡としては捉えられていませんが、三角の新田は明らかにこれらの水路沿いに開かれています。
 とは言え、もともとは江戸市中の飲料水確保のために開削された玉川上水なので、分水の開削や農業利用についてはいろいろと厳しかったようです。当然のことながら、水田で稲作ができるほどの水量はもたらされていません。江戸時代前期の『武藏田園簿』に見える田と畑の比率、あるいは『新編武蔵風土記稿』の記述からも一目瞭然です。
 一方、多摩川のすぐ北側の水路網については、中世、中には古代まで遡り得るものがあるはずですし、実際に発掘調査により検出されている水路跡もあります。江戸時代前期の『武藏田園簿』でも、多摩川低地の村落は田の比率が高いだけでなく、石高も大きい=生産力が大きいことが分かります。たとえば府中用水の本格的な整備は江戸時代前期(1693年)です。下流の二ヶ領用水などを含めて、やはり江戸時代前期以降に開発がより活発化しと言えますが、それ以前にも相応に開発が進んでいたと考えられるでしょう。
 府中宿の繁栄、その結果残された多量の遺物は、もちろん街道沿いの宿駅ということが背景にありますが、いまひとつには生産力の高い多摩川低地に近接している=農業生産の面でも豊かだった、ということもあるでしょう。それに対して、台地内部では開発もそれほど進まず、結果として台地に刻まれる人間活動の痕跡=遺構・遺跡が希薄なままであったということになるでしょう。
 日常生活用品としての陶磁器の利用方法が、遺物の少なさに反映しているだろうということは、前記事で確認したとおりです。
 このように、地形と水文・水利環境が中世~近世の土地利用・景観に大きく影響し、その結果として考古遺跡の分布や遺物の多寡にも反映していると言えるのです(つづく)
by asiansophia | 2011-09-09 23:38 | 考古学(ジオ)