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江戸時代の多摩の農村/ Archaeology of rural village in Early Modern Age

江戸時代の多摩の農村/ Archaeology of rural village in Early Modern Age_a0186568_23451441.jpg 突然ですが、近世考古学です。過去記事でもちょっとだけ触れた本業の遺跡調査・報告の仕事に関連して、この秋に近・現代の調査成果を中心とした企画展を行ないます。その際に、メインディッシュの調布飛行場関連資料だけでなく、飛行場以前についても取り上げよう、ということなのですが...
 実は、わが遺跡では調布飛行場以前の時代の遺構、遺物はほとんど見つかっていません(写真は第2次大戦期の戦闘機用掩体壕)。
 しかし、何で見つからないのか、それなりに意味があるわけでして... わずかながら出土している断片的な遺物を手がかりに、周辺の遺跡と比較して、近世(江戸時代)~近代(明治・大正時代)にかけて、わが遺跡が、人びとの暮らしの中でどのような場所だったのかを探ろう、というわけです。
 とは言え、まったくの門外漢なので、プロのご指導をいただきながら手探りでイチから勉強...そのメモのようなものです。
江戸時代の多摩の農村/ Archaeology of rural village in Early Modern Age_a0186568_20581934.jpg

 非常に大雑把ですが、対象とする武蔵野台地の南部つまり旧北多摩郡の南部では、古代~中世の遺跡はおもに多摩川低地沿いに分布します。野川流域では、深大寺より下流に遺跡が分布し、上流側には寺院やお墓関係以外の、生活の場としての遺跡はあまり見られません。
 これはひとえに、農業水利と密接に関連してものと言えそうです。
 江戸時代に入ると、人口の増加、開発が進みますが、それでも新開村、新田は、街道沿い、水路沿いです。にぎやかな甲州道中の宿駅や近隣村落に対して、遺跡(上図の赤丸印)の周囲は静かな農村地帯だったのでしょう。遺跡範囲自体は、明治前半の迅速図でも山林となっていますので、上石原宿や飛田給村などの秣場などとして利用されてきたのでしょうか。
 わが遺跡の近くでは、府中市の朝日町神明台遺跡(「朝日町神明台遺跡 府中市朝日町3丁目・旧調布基地跡地内遺跡の調査概要」:現在の榊原記念病院です)で新田村落の屋敷地が発掘されています。ここは多摩川沿いの押立村の持添新田として18世紀以降に開かれたと考えられます。
 この遺跡からは、井戸跡などから陶磁器類が出土しています。碗が多く、ほかには小皿、徳利、擂り鉢、仏具(花瓶など)、灯明皿など、日常の器の一そろいといった感じです。数は、決して多くありません。
江戸時代の多摩の農村/ Archaeology of rural village in Early Modern Age_a0186568_2035193.jpg
 これに対して、当時の地域の中心地、府中宿の本陣跡(現在、伊勢丹・フォーリスになっています)の新宿宮ノ前遺跡では、多量の陶磁器類が出土しています。写真は、報告書(府中市埋蔵文化財調査報告第17集『武蔵国府関連遺跡調査報告17』)に掲載されているものです。
 ここでは、碗や擂り鉢、灯明皿などのほか、染絵付の大皿、大型の土瓶と湯呑み茶碗、各種の皿、鉢、丼などが出土しています。
 こうした宿場と農村の出土陶磁器の違いについてはプロの方が考察されていますので、ここではアマチュア的に、食膳具の構成についてちょっと考えて見ます。参考にするのは、梶原勝2001「江戸周辺地域における食器様相」『江戸遺跡研究会第14回大会 食器にみる江戸の食生活』です(以下の図は、同論文中の図7~9を再トレースしました。Iさん、ありがとうございます)。


江戸時代の多摩の農村/ Archaeology of rural village in Early Modern Age_a0186568_21264968.jpg

 細かいことはさておき(スミマセン...)、民俗事例を引用した多摩西部(現・羽村市)における明治~昭和前半の食生活・食膳具の構成が分かりやすいかと。
 まずは日常の食膳。茶碗2膳(飯と汁物)、小皿(お新香か味噌)という、とても慎ましやかな構成です。ただ、農作業の際には、作業の合間にも食事を取るので1日5食(米、団子など中心)だったそうです。
江戸時代の多摩の農村/ Archaeology of rural village in Early Modern Age_a0186568_2127040.jpg

 一方、婚礼・仏事などにはウドンが振舞われ、品数も増えるので食膳具も増えます。なおオヤワン、ヒラなどは漆器だったようです。
 ということで、ふだんづかいでは碗と小皿のみ。これらは頻繁に使うので比較的壊れる機会が多く、捨てられ、遺跡から出土することも多くなるでしょう。冠婚葬祭用の食器類は、頻繁には使いませんし、当然、大切に扱われるでしょうから出土数も少なくなるでしょう。

江戸時代の多摩の農村/ Archaeology of rural village in Early Modern Age_a0186568_2146981.jpg 対して宿場では、大勢の人が行きかい、多数の食器類が食膳に供されます。壊れて捨てられる、その回転も農村より圧倒的に速かったでしょう。また大勢に給仕するための大型の土瓶や大皿、農村のふだんづかいの器とは異なる色とりどりでにぎやかな食器類が多数出土する、ということになるのです。
 ちなみに府中・新宿宮ノ前遺跡では、変り種としてヨーロッパ製の磁器も出土しています。当然、輸入品。しかも、普通に手に入るものではなかったでしょう。

 遺物の少なさ(量・内容)もまた、ほかとの対比の中で人びとの暮らしを描き出すための材料になる、というお話し。
 遺構や遺跡そのものが少なかったり、なかったりすることについては、また後ほど。
 やりかけ、途中のお話しばっかり。行き当たりばったりの無計画さ、申し訳ありません...;



 なお資料調査にあたっては、府中市教育委員会・府中市遺跡調査会にご協力いただいております。感謝。
 そして論文集めから資料調査まで全面的にバックアップいただいているO川さんには感謝してもしきれません。引き続きよろしくね^^
by asiansophia | 2011-09-07 21:50 | 考古学(いろいろ)