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カテゴリ:野川・多摩川/RegionalStudy( 8 )

府中市史跡 旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕

 パキスタン編再開の前に、日本の近・現代遺跡について。

 飛田給駅の北側、味の素スタジアムに隣接している東京都調布飛行場は、太平洋戦争直前に建設されました。当初は、羽田空港に次ぐ東京の公共用空港として開設されたのですが、太平洋戦争の間は旧日本陸軍が使用していました。とくに米軍による空襲がはじまると、首都防空の中心的な基地として戦闘機が配備されていました。そしてその戦闘機を米軍機の空襲から守るために、基地内外に多数の掩体壕が建設されました。
 掩体壕というのは、盛り土やコンクリート製の掩蓋などにより航空機などを保護するための軍事施設です。調布飛行場では、航空機を空襲から守るために、飛行場の範囲外の多磨霊園や浅間山、下石原八幡神社などまで航空機を運び出して秘匿していたそうですが、掩体壕もまた、飛行場の範囲外にも多数建設されました。その総数は百基を越えると言われていますが、現存しているのはわずか4基です。
 そのうちの1基が、府中市の白糸台掩体壕です。長らく個人の所有でしたが、保存状態がもっともよく、2008年に府中市の史跡となりました。
 その後、発掘調査が行なわれ、保存・公開のための整備が続けられていたのですが、このたび、2012年3月29日に公開されました。

  Google Mapでも、上空からの姿が映っています(こちら:別窓)。これは、整備工事前の状態ですね。

 さてこの白糸台掩体壕の整備竣工記念式典と内覧会にお呼ばれしてきました。実は、先に同じ調布飛行場の掩体壕(の基礎部分)を発掘したことがあり、整備にあたって図面等を提供させていただいたという経緯からです。
 調布飛行場の掩体壕については、すでに飛行場滑走路北側の武蔵野の森公園内に2基が保存・公開されていますが、残念ながら安全上、入り口は封鎖されていて内部を見ることはできません。対して、白糸台掩体壕は内部も公開されると言うことで(ただし、ふだんは内部には立ち入れません。特定の日時に見学会を行なうそうです)、軽い気持ちで中を見に行こうと思って足を運んだところ...
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 記念式典の来賓席、府中市議会の議員さんたちが居並ぶ末席に通されてしまいました(汗)。とりあえず、小さくなって座ってました。写真は、挨拶する府中市長。
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 テープカットは、市長、市議会議長、都議会議員のみなさん。
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 掩体壕と整備事業について説明する府中市の文化財担当のEさん。
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 で、こちらが整備の完了した掩体壕です。
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 こちらは解説板。
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 お待ちかねの来場者のみなさんは、さっそく壕内へ。
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 掩蓋内部の天井部分です。石ころだらけ...
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 これ、実は多摩川のかわら石です。コンクリートに、川砂ではなくて大量の石ころを混ぜてるのですね。物資不足の中、少ないセメントで掩蓋の躯体を作るための苦肉の策でしょう。国民学校の生徒まで動員して、もっこで川原から運んできたのだと言います。
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 こちらは型枠に使った板材でしょうか? ドーム状の掩蓋部は、まず土饅頭で型を作り、その上に、板や新聞紙などを敷き詰めてからコンクリートを流して整形したのだそうです。小さな端切れを使ったので、コンクリートに取り込まれてしまったのですね。
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 今から考えられると信じられないような粗悪な建材と工法です。物資不足はもちろんのこと、建設には軍の専門部隊(工兵)が従事することなく、わずかな軍人の監督の下、地元の人びとが動員されたと言うことです...
 これでは、爆撃から戦闘機を守るどころか、いつ天井が崩落するか、という方が心配なくらいではないかと思いますが...
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 いちおう、外観からはそんな粗悪な状態がわからないように、モルタルで薄く化粧されています。でも、モルタルがはげている部分からは小石だらけなのが見えてます...

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 現地は、国道20号線(甲州街道)の陸橋のすぐ南側ですが、住宅街の中で少し分かりづらいかもしれません。でも最寄の西武多摩川線「白糸台」駅、京王線「武蔵野台」駅からは、案内板が経路上に整備されたので、案内に従って行けば辿りつけますよ。
 これから、国道の陸橋沿いの桜も綺麗な季節なので、ぜひ!
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by asiansophia | 2012-04-01 06:00 | 野川・多摩川/RegionalStudy

企画展「下原・富士見町遺跡の調査」開催中です

 先にご案内しました企画展、10/29(土)よりはじまりました。11/6(日)には講演会「明大キャンパスの戦争遺跡」も開催され、60名ほどの参加者を得て盛況のうちに終えることができました。
 企画展は12/4(日)まで。会場は、調布市郷土博物館1F企画展示室。月曜休館、9:00~16:00開館です。最寄り駅は、京王相模原線「京王多摩川」駅。徒歩5分です。
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 パンフレットは、会場にて無料で頒布中です。
 なお、展示の様子などは追って紹介したいと思いますので、少々お待ちください。

調布市郷土博物館のウェブページはこちら
ちらしPDF版はこちら(明治大学)
こちらもどうぞ

For overseas visitor: special exhibition 'Excavation of Shimohara & Fujimi-cho sites' is now held at Chofu City Museum. Outline of exhibition is uploaded on Facebook page. If you have interesting to Early Modern and Modern Age Archaeology, please check it.
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by asiansophia | 2011-11-10 22:58 | 野川・多摩川/RegionalStudy

調布市郷土博物館企画展「下原・富士見町遺跡の調査」のお知らせ

 またまた1ヶ月以上更新をさぼっていました。。。
 いろいろと忙しくてですね。。。その忙しかったことのその1について、ご案内させていただきます。
 ちょっと大きいですが。
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 まだ準備中です。でも山は越えました(たぶん)。今週から展示作業に入っております。Facebookページでは展示作業の途中経過も紹介中です(こちら)。

調布市郷土博物館のウェブページはこちら
ちらしPDF版はこちら(明治大学)
こちらもどうぞ
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by asiansophia | 2011-10-21 22:20 | 野川・多摩川/RegionalStudy

ジョウモン・リージョナル 飛田給遺跡の微視的構成

 2ヶ月ほど前の関連記事(123)の続きです。
 引き続き、調布市飛田給遺跡を参考事例にして、ジョウモン遺跡の構成と、さまざまな地理情報との重ね合わせを検討します。
 東京西郊のこの地域をフィールドとするメリットは、まず調査件数の多さにあります。個々の調査自体は小規模なものが多いのですが、登録されている周知の遺跡の中の広い範囲にわたって調査が行なわれており、遺跡の構成を知ることができるのです。
 また”現在”の地形図から、明治時代前期の迅速測図、江戸時代後期の地誌(『新編武蔵風土記稿』ほか)や絵図などの歴史資料がそろっていることもメリットのひとつです。ここから、土地利用や景観についてアプローチすることが可能です。
 市街地化しているために地形の改変が進んでいるということもありますが、一方で、山林や畑地よりも踏査が容易なこともあります。見通しが利き、高低差を把握するための基準(建物や電柱など)が多数あるために、微妙な地形の起伏を読み取り記録するのが容易なのです。改変の度合いも、たとえば雍壁の構造や規模であるとか、一軒単位の造成なのか大区画の切り盛りなのか、といった視点から推測することが可能です。1/2,500縮尺の地図上に踏査の結果を書き込み、さらに発掘調査を通じて得られる過去の地形に関する情報をマッピングしていくと、見えてくるものがあるのです。が、その詳細はまた後ほど…
 本日は、さまざまな地理情報との重ね合わせを中心に紹介します。

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 まずは、もっとも一般的な1:25 000地形図に、既往調査区と検出遺構の位置をプロットします(遺跡に関する情報ソースは、発掘調査報告書と調布市埋蔵文化財年報です)。このスケールの作業のためには、1:25 000地形図では縮尺が小さすぎですね。
a0186568_21254929.jpg

 そこでより大縮尺の1:2 500地図に重ね合わせてみましょう。調査区と街区の位置関係が明瞭に捉えられます。各調査区の位置や形状は、現状ではこのスケールで管理しています。また細かな道路や建物の位置が分かるので、市街地の踏査には大変役立ちます。なお、これを見ると中央下よりを西北西~東南東に横切る都市計画道の調査区と、その北側の京王線の線路沿いの調査区の間の調査事例がほとんどありませんが、実は、立会調査が多数行なわれています。なかなか報告書にはあらわれないそうした情報についても、調布市教育委員会のご協力で記録を参照させていただいて、より詳細なデータを整備中です。
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 大縮尺地図上で位置を合わせて整備した、調査区と遺構位置のデータを、10mメッシュDEMデータによる等高線図と段彩図の上に重ね合わせます。残念ながらこのデータでは、微地形要素と遺構分布の関連を捉えることができません。しかし現地を踏査すると、崖線の上の一見平坦に見える台地上に微細な地形を区別することが可能です。発掘調査で得られるローム層の層厚と層序、礫層上面の高度分布などから、微細な地形面として区分することができそうです。
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 市街地化が進む以前の旧地形を検討する際に参考になるのが、明治十年代に作成されたいわゆる「迅速図」です。ただし厳密な重ね合わせはできないので、迅速図の図幅相互の重なりと、古くからあるランドマークの位置関係をみながら微調整します。崖線をはさんだ台地と低地における土地利用の差を見ることができますね。また崖下の水路の状況も伺えます。これらの水路は、『新編武蔵風土記稿』にも記載があり、また絵図にも見えます。崖下の湧水と、多摩川から引かれた用水とが渾然一体となったものだったようです。
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 ところで、迅速図から読み取れる水路の位置や形状は、現在も残る、または最近まで残されていた水路(府中市、調布市の資料にもとづき作図)と異なる箇所が多々あります。両者を重ね合わせると、結構ずれていますね。
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 理由はかなり明白。迅速図の水路をあらためて現状の街区と重ね合わせると、道路や建物を縦横無尽に横断している箇所がいくつもあります。一方で図示していませんが、現存する水路、あるいは最近の記録に残る水路は、おおむね現在の街区に沿って配置されています。明治前半以降、農地の改良や宅地化にともなって水路の位置が移動されたり付け替えられたりしていることを示しています。このあたりは、現地の踏査からだけでは見えてこない部分でもあります。
 
 それはともかく、遺構分布については調査されている範囲だけでも明らかな粗密があり、いくつかのクラスターを設定することが可能です。このうち竪穴住居と埋甕は土器型式にもとづく編年学上の時間軸を与えることが可能(さらに今日では数値年代との対比モデルも示されていますし)なので、縄文時代の中でもさらに時期を絞って、遺跡の広がりと構成、微細な立地条件を議論するための材料が整います。
 そしてここに示したように、さまざまな地理情報および歴史地理情報との重ね合わせの準備も整いました。
 さて、これから分析スタートですよ。そしてその結果は,,,もう少し作業が進んだら、公開しますね。
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by asiansophia | 2011-08-03 22:03 | 野川・多摩川/RegionalStudy

「春の小川」はなぜ消えたか 武蔵野台地の河川と水路

 古地図の集成と地理・地形学についての燻し銀のラインナップが揃う之潮から、『「春の小川」はなぜ消えたか』(田原光泰著)が刊行されました。現在では、その大部分が暗渠となりまた下水道幹線として利用されている渋谷川(古川)の、歴史と現状を詳細に実地調査した成果がまとめられ、巻末には折り込み地図まで付されています。これで¥1,800+税は、超お買い得でしょう。
 街歩きマニア必携です。
 そして考古学者にとっても...都市部において、現行の地形図からは復元が困難な旧地形・水系を知る手がかりとなるだけでなく、その水路の利用の歴史を知る上でも、大変役に立つ一冊です。現在の代々木駅、新宿御苑付近の渋谷川の水源地域は、近年、新宿駅南口再開発や道路工事にともなって発掘が続き、後期旧石器~縄文時代の遺跡の所在が明らかになってきたところです。いま現在、現地では道路上の起伏でしか追えない旧地形が、この本によってよく分かります。

 またそれとは別に、近・現代の下水道利用と暗渠化の以前の、用水路としての利用についての記述もまた重要です。武蔵野台地東部、つまり現在の東京都心部~山手地域は、西郊よりも深く複雑な谷が多く刻まれていますが、これは台地全体の基盤地形の形成に深く関わっています。多摩川下流部の氾濫原~河口部として形成された台地東部の基盤は礫層ではなく砂~シルト層であり、その後の海面低下期に下刻が進んで深い谷となっているのです。
 そして同時に、かつての多摩川の上~中流部、すなわち扇状地帯として形成された台地西部に対して、旧扇状地端部からの湧水に恵まれ、深い谷には水量が豊富な川が流れていました。このため、弥生時代以降も連綿と集落遺跡が残され、中世においても武蔵南部の拠点的地域の一角をなすのです。江戸城が、旧国府ではなく、現在の場所に築かれたのは当然の帰結と言えるでしょう。
 対して、台地西部では多摩川沿いの低地を除くと水利に事欠き、低地と湧水が得られる崖線沿いを除き長らく荒蕪地が広がる状況が続きます。この状況は、縄文時代以降、なんと1万年近くも続くのです。
 この状況を一変させたのが、玉川上水の通水です。多摩川上流部の水を台地のもっとも標高が高い地区を通して、そこから北へ南へと水を落とすことができるようにするという未曾有の水利システムが完成したことにより、台地西部では新田開発と人口増の時代が訪れます。
 もちろん玉川上水は、元来、巨大都市江戸の水利を第一の目的として開発されたものですから、当然、江戸市中も恩恵を受けるわけですが...流れてきた水は、最終的にはどこかに排水しなければなりません。用水路は排水路と一体となって整備されていくことになります。

 かなり長くなってしまいましたが、『「春の小川」はなぜ消えたか』でも細かく調査されているとおり、かつての谷と自然水系は、江戸時代には用水・排水系の中に組み込まれていくことになります。
 私たちが手にすることができる、東京、武蔵野台地のもっとも古い地形図=明治13年の迅速測図にあらわされている水路の多くは、実はそうした過程を経て整備されたものが大多数です。明治期以降の水量そのほかの地誌・水文の記録も、決して自然状態のものではありません。たとえば『新編武蔵風土記稿』の記述を見ると、台地東部のいまでは暗渠化されている諸河川の多くが、野川上流部などより川幅が大きく水量の多い「川」として記述されています。
 旧地形の復元には、地理・地形学だけでなく、現在観察される状態がどのような歴史的過程を経て成立したのかという土地利用史、景観利用史の観点も組み込まれなければなりません。


之潮の関連出版物


新版・川の地図事典 江戸・東京/23区編


江戸・東京地形学散歩・増補改訂版


川の地図事典 多摩東部編


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by asiansophia | 2011-06-12 10:19 | 野川・多摩川/RegionalStudy

予告編 ジョウモン・リージョナルv2

 おまけ、に続いてもう少し追加...
 多摩川と野川の間、現在の東京都府中市を中心にした辺りの縄文遺跡の分布と地形です。引き続き国土地理院の10mDEMにもとづいて、高さは10倍になってます。ちなみに、画面中央付近の崩れかけたコロッセオみたいな小山が我が社の所在地。
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 左~下の府中崖線に沿って、遺跡・調査地点が密集しているのは、武蔵国府関連遺跡~飛田給遺跡です。国府関連遺跡については、まだ白糸台地区しか調査区を入れてませんが、この背後に、とんでもない量と範囲の調査区が広がっています。そして、何かしらの縄文遺構・遺物が検出されている地点が帯状に連なりますが、住居跡が検出されているのは限られた範囲のみであることがよく分かります。これが、従来「集落遺跡」として捉えられていたもの。というよりもむしろ、こうした集落遺跡の代表点が「縄文遺跡」の位置としてプロットされてきた、といえるでしょう。
 ところが見てのとおり、崖線沿いには、住居跡をともなわない活動痕跡が帯状に広がり、連なります。
 もっとも、このレベルではまだ「点」で調査地点を扱っているので、調査範囲の狭小なども考慮しないと活動痕跡の「密度」としては読み取れないですね。いちおうその辺りも、データを作成中です。
 また内陸側への活動痕跡分布は、清水ヶ丘地区と西府地区の間、古代だったら枢要の国府地区ではかなり内陸まで伸びているように見えますが、これもまた調査地点の密度、面積に規定されています。土器片1点でもプロットしているので、調査事例が増えると発見率が上がって地点数も増す傾向があります。この点も、調査区のデータを加えて処理します。
 もちろん、時期別に分解することも必要ですね。この段階では、おおむね中期中葉~後葉を中心としたものに、一部前期後葉や中期初頭~前葉が加わっていると理解しておいて下さい。あと、時期不明も... 住居跡が検出される「集落」間で、さらに遺構・遺物検出地点が少なくなる個所については、単純な調査密度の関連だけでなく、微地形要素との関係がみてとれます(下図は1mの等高線...粗い)。
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 10mDEMの分解能および現代の土地改変の影響が厳しいところもありますが、微視的な集水域と関連づけられそうです。そしてそうした微地形は、ここ2万年ほどの間の地形発達史によって説明されます。
 先に2010年の日本考古学協会では、この範囲についてキロメートル単位での遺跡分布が10万年オーダーの地形発達史と結びついていることに触れる発表をしましたが、102m単位での遺跡・地点分布はもう少し短い周期の地形発達史に規定されるようですね。そしておそらく、古代には克服されてしまう...前者(10万年オーダーの地形発達史)の規定は江戸時代後半~現代になるまで克服されないのですが...
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 この辺りは古代の大開発によって広い範囲が遺跡(周知の埋蔵文化財包蔵地)となり(認識され)、それをフォローする調査が重ねられています。そして古代の人びとの旺盛な開発意欲によって、異なる地形要素をまたがって遺跡が広がっているために、地形要素・単位間の遺構・遺物分布を検証する格好のフィールドとなっています。
 上図は武蔵国分寺跡そのその周辺の調査区、検出遺構(遺構種別はまだ分けてません)の時期別分布。まだ恋ヶ窪遺跡、府中病院の最新(にして最大)の調査区などが反映されていない作成途上のものですが、ここでは、上記の府中崖線沿いとはまた異なった立地・景観における縄文人の活動の空間構成を抽出することができそうです。
 さて、本編はいつごろ...それは訊かないお約束、ということで。そして引き続き、データ整備と作図に尽力されているKさん、Iさん、いつもご苦労さまです。

 今宵はここまでに致しとうございます(from 1988年流行語大賞)

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予告編 ジョウモン・リージョナル(おまけ) 2011/06/07
予告編 ジョウモン・リージョナル  2011/06/05
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by asiansophia | 2011-06-10 18:39 | 野川・多摩川/RegionalStudy

予告編 ジョウモン・リージョナル(おまけ)

a0186568_2361027.jpg 一昨日の記事を投稿した後、もう少しだけ頭の中を整理してみました。今後の展開1)のつづきです。
 縄文時代の集落、そしてそれを取り巻く領域(生活範囲)については、歴史的・民俗学的な村落景観についての同心円状のモデルが適用される場合が多いかと思われます。居住の場を中核として、日常的な生産活動の場(農地)から中間的な空間(サトヤマ)~非日常的な空間(オクヤマ)へ、という図式ですね。もちろんこれは、概念的なモデルです。あるいは経済学的な観点からは、移動コストと開発可能資源の関係からみたキャッチメントという概念もあるかと思います。
 これに対して、今回、われわれが遺跡分布を微視的に検討(微分)した結果見えてきたものは...崖線という地形に強く規制された、特徴的な生活空間配置の実態といえるのではないかと考えます。
 遺構単位の分布の中に見出される住居跡の分布の集中単位を核として、集石や土坑、土器集中などの分布が示す活動の強度の高い空間が崖線に沿って帯状に配置されます。まだ図示できませんが、どうも崖線の中の微地形要素によって、そうした帯状の配置の中でも遺構分布=活動強度の差異が生じるようで、これにより崖線沿いの分布の中で、「遺跡」の範囲を区切ることができそうです。
 一方で、崖線に直交する方向では、わずか200~400メートルほどで急激に活動痕跡が残されなくなります。連続的な変化というよりも、一定の距離を「しきい値」として、「活動痕跡を多く残す」/「ほとんど残さない」の二値に二分できるような様相を示すわけです。
 この状況を、先の同心円状のモデルと比較すると、崖線等という地形の著しい影響(効果)により、限りなく二次元に近く引き伸ばされている状態にあると言えるのではないでしょうか?
 どういうことかと言うと...崖線に並行する方向では、中核~周辺という連続的な推移が見えます。一定の尺度で、それをゾーニングすることも可能でしょう。しかし直交する方向では、そうした連続的な推移ではなく、急激な変化ないし断絶しか捉えられないわけです。
 「遺構および遺物分布を残す活動」の分布は、崖線地形に強く規制されていると言えそうです。
 そんなことは、前から言われていたじゃないか、という声も聞こえてきそうですが...ここで取り上げるのは「集落」の分布ではないですから。
 住居跡が集中する「集落」だけでなく、考古学的に捉えうる活動痕跡のほとんどの部分が崖線沿いに集中しているのです。そしてそのことを、感覚的にではなく空間分析として手順を踏んで提示することができるのです。
 どうでしょうか?
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by asiansophia | 2011-06-07 22:41 | 野川・多摩川/RegionalStudy

予告編 ジョウモン・リージョナル

 現在、昼のお仕事では、縄文時代と後期旧石器時代の報告書作成中です。
 今回は、縄文時代編のまとめ・考察に関わる話題をちょっとだけ先取り。
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 これは、現在整理作業中の遺跡...ではなくご近所の調布市飛田給遺跡(一部、府中市武蔵国府関連遺跡白糸台地区を含む)の既往調査範囲です。オレンジ色の範囲は既往調査区。黒い三角印は縄文時代の遺構・遺物が検出された地点を示しています。ArcGISというアプリケーションを使用しています。背景の地図は東京デジタルマップ(1:2500地形図)です。
 ぱっと見て分かるとおり、図の上側=北側の範囲は、調査されているのに縄文時代の遺構・遺物が見つかっていません。「飛田給遺跡」としてはこのオレンジ色の範囲全体をカヴァーする形で登録されているのですが、縄文時代の遺跡としての範囲は、より南側に偏っている、と言えます。
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 同じような地図ですが、これは各調査地点の中で、縄文時代の遺構が検出された位置に緑色のドットを落としています。
 ちょうど遺跡範囲の南側を東西に横切るように都道の調査区が横たわっているのでよく分かるのですが、遺構は均等に分布しているわけではありません。縄文時代の遺構・遺物が検出された調査地点の中でも、さらにまとまり・かたよりがあります。
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 国土地理院による10mメッシュのDEMデータにもとづく段彩図・等高線と重ねてみました。ぱっと見、崖線からの距離が大きく反映していそうです。しかし、微視的なまとまりと地形との関係については、このレベルの解像度でははっきりしないですね。

 さて、これにもとづく今後の展開
1)遺跡分布論・領域論について
 小縮尺(たとえば1:25,000またはそれ以下)の地図上で、この全体を一つの点で代表させて遺跡分布を議論するのが従来の遺跡分布論・領域論だったと思います。しかしながら、住居跡以外のさまざまな遺構や、遺構はなくても遺物はある、といったレベルの行動痕跡の遺存する範囲と、掘っても何も出ない範囲が、その代表点の中に内包されています。
 微視的に見ると遺構・遺物の分布密度が散漫になりながらも次の密集地点へ連なっていく、という傾向を捉えられる崖線沿いの分布と、ある距離以上内陸に入ると分布がなくなる、という崖線に直行する方向の分布が見られるわけです。
 他の遺跡・遺跡群についても同様の作業を進めていくと、共通するパターンと固有のパターンが見えてきます。地形との関連、そのほかの要因の探索が今後の課題です。
 なおこれらの遺構・遺物分布のデータには、時期(大別型式単位)や遺構種別も含まれているので、そうした属性単位、および属性相互の相関も検討対象です。

2)遺跡発掘調査データの管理・アーカイヴについて
 ところで、このデータは、職場のKさん、Iさんの血のにじむような(?)努力の成果でもあります。それが何か?...つまり、遺跡の位置や範囲、調査成果について、総覧化されていないのです。
 ここ飛田給遺跡については、調布市教育委員会により調査地点(次数)や内容がその都度まとめられているので、遺構レベルまでの分布図作成もあまり困難ではありませんでした。しかしほかの遺跡の場合は...
 たとえばここ十数年で言えば、調査区の範囲とか遺構の位置について、発掘調査のたびにデジタル・データとして記録されているはずです。それらが共有化されていて閲覧可能ならば、そうした血のにじむような(?)努力を経ずに、分析・研究の次のステップに進めるのです。
 まずはそうした努力が必要だ、というご意見もごもっともですが、しかしすでにあるものを利用できるようにしないということとは別問題ですよね。お金をかけて調査、測量するわけですから、何らかのかたちで有効活用できるようにできないか、と。
 また調査地点の位置に関しては...ここでは比較的はやくに市街地化されていて、過去の報告書と現在の地形図との異動が少ないのですが、場所によっては、発掘調査地点が現在は空中(つまり削平されて消滅)だったり、等高線から道路、主要建物まですべて変わってしまっていたりして、位置を特定できないものがあったりします。
 え? 報告書抄録に緯度経度の情報があるじゃないかって? あっさりとそう言える方は、大変申し訳ありませんが、ここで示しているような精度の作業を行なったことがないのでしょうね。

 おっと、予告編なのに筆がすべりました。
 続きは、また後ほど。
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by asiansophia | 2011-06-05 23:41 | 野川・多摩川/RegionalStudy